小さな親切、大きなお世話なこと。

例えば、地球が平らであると信じて疑わない人に対して地球は球体であると伝えること。
例えば、幸せの青い鳥を探すことに人生をかけている人に対してそんな鳥は存在しないということを伝えること。
例えば、今幸せである人に対してそれは本当の幸せではないと伝えること。


例えばの話を書いて思うことは、地球が平らであることを信じて疑っていなかった人がいきなり地球は球体であると言われて信じられるかどうか。
例えばの話を書いて思うことは、幸せの青い鳥を探すことに人生をかけている人がいきなりそんな鳥は存在しないと言われて信じられるかどうか。
例えばの話を書いて思うことは、今幸せである人がいきなりそれは本当の幸せ*1でないと言われて信じられるかどうか。

もしかしたら、幸せの青い鳥を探すことに人生をかけていた人はそれを探すという行為があったからこそ生きていられたのかもしれない。
今幸せである人に対して、それは確かに本当の幸せではないのだけれど、それを伝えてその偽の幸せすら奪い取ってしまうということは果たしてその人にとって良かったことなのだろうか。

その人にとって知らなくてもよいことを伝えてしまったのではないだろうか。

そこで思うのは、本当に知らなくてもよいということはほとんど存在しないのではないだろうか。それを知ったことによって確かに失うものはあるかもしれない。だけれど、そこから失った以上のものを(その人のその時の努力次第で)得られると思う。

だからこそ、人は知った後の恐怖というものが存在するかもしれないという事がわかっていながら『知る』という行為をやめないのだと思う。

*1:これが何なのかを定義することは相当難しいと思う。