大坂夏の陣

1615年6月3日は旧暦に換算すると慶長20年5月7日となります。
400年前のこの日、大坂では戦国の世最大にして最後の戦い、天王寺・岡山合戦が行われました。
前日の道明寺・誉田合戦で大敗し後藤基次など中心人物を失った豊臣方はかき集めた兵およそ5万を大坂城南側に集結させ、一大決戦に望みます。いわゆる天王寺・岡山の戦いで、真田信繁毛利勝永大野治房などが奮闘しますが、あと一歩及ばず敗退となります。
戦いの最中、出馬予定だった豊臣秀頼も流言飛語によりならず、夕方には大坂城も炎上、翌日秀頼の自刃により豊臣氏は滅亡となり、歴史用語で言うところの元和偃武となります。


1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去し、その子秀頼が若く有力な後見がいなかった時点で豊臣氏の将来は詰んでおり、徳川家康が早期に死ぬ以外に逆転ホームランの可能性はほぼなかったにも関わらず、それでも実質的な終焉が見えてきた関ヶ原の戦い(1600年・慶長5年)から滅亡するまで15年もかかったのはいかに豊臣秀吉の残した資産が莫大であったかを物語っています。
15年間かけて家康はあらゆる手段を講じて豊臣氏の資産を削り豊臣方は打つすべもなくなされるがままという状況が続きますが、それでも十分に削ることは出来ず、方広寺鐘銘事件というほぼ難癖に近い形で挑発を行いやっと大坂の陣という決戦で決着を付ける機会を得ることができます。
翌16年には家康は死去しているので、このタイミングを逃すと家康の死去までに豊臣氏を滅亡させることは非常に難しかったと思われます。

チャンスが転がり込んできてから死ぬまでの十数年間、着々と敵を追い詰め、最終的に徳川260年の礎を築き上げた家康の緻密さには400年経った今でも稀有な存在であることは間違いないかと思います。