功名が辻

なんというかまぁ突然ではあるけれど、今から450年くらい前に山内一豊という人物が産まれたわけです。父は盛豊で尾張岩倉織田氏の家臣。この頃の織田氏織田信長の父信虎の死後強く対立しており、盛豊が仕えていたのは信長の親戚で敵対する信安の方。のちに信長よって岩倉織田氏は滅ぼされ、家臣である山内氏も壊滅状態となる。戦闘で父と兄を失った一豊はその時十数歳、何とか生き残ったけれど流浪の身に。若くして苦難やなぁとか思ったあなた、戦国時代では結構普通です。
何だかんだと流れに流れ、時はすでに織田の時代、一豊が時代の流れなんぞに逆らえるわけもなく、親の仇ではあるけれど織田家に仕える事となる。とはいってもいきなり直参になれるほど有能でもなかったので、織田家で今一番ほっとな人物、羽柴秀吉に仕えることになる。まぁ同じようにほっとな人物である柴田勝家明智光秀、滝川数益あたりに仕えなかったのは運があったのかどうか。
基本的に文武共に人並みだった一豊が一等星のシリウスなみに光ってる秀吉の近くで目立つわけもなく、うだつの上がらない日々を送ってたわけですが、時は1570年、一豊にもシリウスとはいかなくても五等星くらいの星になれる時がやってきたわけです。
その頃信長は近江浅井長政*1と同盟を組み越前朝倉氏を攻める為、えいこら向かってたわけです。そして4月25日、信長は越前天筒山城を開城させ朝倉軍は近くの金ヶ崎城に撤退、こりゃ幸先良いのぉとか信長が思ったかどうか知らないけれど気をよくした信長は油断、後ろから迫る同志浅井長政軍に気がつかなかったわけです。これによって信長軍は前方を朝倉軍、後方を浅井軍に挟まれてしまい、袋のネズミ状態。これが珍しく信長が負けた戦である金ヶ崎の戦いであり、さすがにやばいと思ったのか、信長は秀吉に後を任せてとっとと逃げます。この時秀吉は殿*2となり彼の出世を大いに早めたわけです。そんな中、ここは頑張り時と思ったのか一豊も珍しく踏ん張り、武功をあげ、信長に賞賛されるのでした。その時の一豊の功が利いたわけではないけれど、秀吉も数年後近江長浜城をを与えられ、一豊も近辺に領地を貰います。その時あたりから秀吉の出世は凄まじく、上司が出世すれば家臣も出世といった感じで、一豊もいつのまにか出世しあれよあれよと気がつけば遠江国より5万石を領し掛川城を居城とします。通常1万石以上を大名と数えるので一豊もいっぱしの大名、秀吉からの期待も大きいわけで、秀吉の苦労知らずの甥である秀次の雑用係補佐係に任命されます。
で、時は秀吉が死んだ直後の1598年、その頃からいくらぱっとしない一豊でも気がつくくらいあからさまに徳川家康の勢力が増大しており、これからは家康の時代だと感じた一豊は豊臣なんぞさっさと見限って親家康派に鞍替え。
2年後の1600年、かの有名な関ヶ原の戦いの前、石田三成の机上の戦略にかかったふりをして上杉討伐を行う家康に当たり前のようについていく一豊。
そして1600年7月24日、今後徳川側で戦うのか豊臣側で戦うのかちょっとおまえどっちなんや、ということはっきりさせる下野小山評定が開かます。その中で一豊は今までにないくらいの功をたてるわけです。この小山評定、台本はすでに決まっており、あんち石田派急先鋒の福島正則*3が評定中に自分は命を家康に預けるということを大声で叫び、皆がそれにつられ何となくそのその場の雰囲気で家康に加担するという何とも分かり易い流れ。台本どおり、正則が叫んだ後、それ他の皆もこりゃ続かねばという雰囲気になりかけた時、一豊は立ち上がって一言、『ぜひとも我が居城、掛川城を内府殿*4に譲りたいと思います』と別にこの通りにいったかどうか知らないけれど、まぁこんな感じのことを言ったわけです。家康としては高々城一つもらった所で嬉しくも何ともないわけだけど、この時は別。掛川城東海道にあり、この頃の予測では西軍と東軍が衝突する戦場予定地は東海道のどこか。必然的に東海道にある城は出来れば抑えておきたいわけです。正則の大声と一豊の城をあげるという一言によってその場の武将たちは一気に家康加担派。
でもちょっと待った、上手い話には裏があるではないけれど、今までぱっとしなかった一豊がいきなりそんな名案を思いつくわけもなく、この案は他人の物だったという真実もあるわけです。この城をあげますよどうぞ使ってください案は親しくしていた浜松城主、堀尾忠氏の案。小山評定の前によた話でぽろっと言ってしまったのが運の尽き、見事に横取りされてしまったわけです。*5
とまぁ、この時の一豊の一言で家康に加担を決めた武将も多く、後に家康はこれを大いに賞賛、肝心の関ヶ原の戦い時にほとんど武功がなかったにも関わらず、土佐20万石を得る。
土佐に移ってからは、長宗我部の家臣*6らを一切雇わず排斥という一豊らしからぬ強気な政策を行い、彼らは郷士という他藩に見られない身分となるわけです。そして時が300年ほど経ち、そろそろ倒幕かという流れを作った一人はこの排斥されてきた郷士の一人、坂本竜馬なわけで、ある意味一豊が郷士排斥を藩として奨励した為、彼らが藩や幕府に反感をもって竜馬のような人物を台頭させ、討幕運動の流れの一つを作ってしまったとも考えられるわけです。まぁ結果論ではあるけれど。

1605年、高知城にて死去。享年60歳。法名は大通院殿心峯宗伝。

このように、今で言えば、中小企業の社長息子が倒産によってホームレスになったけれど、勢いのある新興IT企業に何とか就職し、上司の活躍でいつのまにやら出世し、高知支社の社長にまで上りつめたという話を来年の大河ドラマでやるわけですね。

以前の前田利家と似通っている所もあるにはありますが、利家は秀吉の同僚だったのに対して一豊は秀吉の部下、利家は武功によって金沢100万石を築いたわけですが、一豊はなんかよくわからんけど土佐20万石。利家と違っていまいちぱっとしないし、知名度も低い*7一豊で、視聴率に敏感になり始めてるNHKがどれだけ視聴率をとれるか。上川隆也仲間由紀恵効果で何とかなるか???

どうでもいいですが、wikipediaには三谷幸喜足利義昭役で出るとか書いてあるのだけれど何かの間違いじゃ・・・。

*1:あざいながまさ

*2:退却戦の時に一番最後に退却する役目。戦いながら逃げないといけないので難易度が高く全滅率が高い

*3:ふくしま まさのり 石田三成殺したいほど大嫌いなので関ヶ原の戦い時東軍に参加

*4:徳川家康

*5:忠氏はこの時の功は逃したが、一豊と違ってそれなりに武才もあったので実際の関ヶ原の戦い戦闘時にいくらか武功をあげ、戦後出雲松江24万石を得ている

*6:長宗我部国親らの家臣。長宗我部は関ヶ原の戦いにより敗軍

*7:利家も高くはないですが